ブロニスラヴ・ピョートル・ピウスツキ
(Bronisław Piotr Piłsudski)
の生涯における主な出来事
1866年
11月2日
ビルニュスより北東へ60キロメートル離れたシュヴェチアニ (Święciany) 郡のズロフ (Zułów) という小さい村で、ユゼフ・ビンセンチ・ピョートル・ピウスツキ (Józef Wincenty Piotr Piłsudski) とマリア (旧名ビレビチ (Billewicz)) の間に生まれる。
1874年
7月
火事で家が焼失したため、余儀なくヴィリノへ転居。
1877年
9月
ヴィリノのロシア語中高等学校に入学する。
1882年
兄のユゼフとともに、自習学習サークルの (スポジニャ (Spójnia)) を作る。この時初めて社会主義の概念と触れる。
1883年
進学許可が降りず、学校の七年に進学できず、留年する。 母親が病の床に。
1884年
9月1日
母親と死別
1885年
9月
高等学校7年終了後、学校を中退し、サンクトペテルブルグへ転居。
1886年
サンクトペテルブルグで大学受験資格試験に通過、同市大学の法学部に正式入学決定。
将来の島流しの地であるサハリン島の北部にあるリコフスカイェ村 (Рыковское) に、同村の村医の提案で気象台が作られる
1887年
2月 の上旬
クリスマスや正月をヴィリニュスで長くすごす。この頃、 (ユゼヅ・ルカシェヴィッチ (Józef Łukaszewicz) と予想される) ある人物に爆発物を集めるための協力を頼まれる。それらの爆発物はナロドナヤ・ボリャ(国民の意志)というテロ団体が爆弾を作るために使う予定であった。2月12日にサンクトペテルブルグから爆発物をとりに来たミハイル・ニキティチ・カンテル (Михаил Никитич Канчер) に40ルーブルを貸し、宿泊の用意をし、その翌日テロリストの案内役として、兄のユゼフを残しサンクトペテルブルグに帰る。
3月13日
ツァーアレクサンドル三世の暗殺から6年目の命日の朝に、巡査員数人がミハイル・カンチェル等6人の若い陰謀者を逮捕した。その捜査中に爆弾が見つかり、さらにカンチェルが尋問により共謀者や関係者の名を明かし、その中にピウスツキ兄弟の名前も含まれていた。
3月14日
ペテルブルグのアパートでブロニスラヴが逮捕される。
4月27日と5月1日
二回開廷された特別裁判で、15人の被告のうち5人が死刑判決を受けた。その中の一人は後でレーニンという名前で知られるヴラディミル・ウリヤノフ (Ульянов) の兄アレクサンドルである。ルカシェヴィッチとナヴァルスキー (Лукашевич と Новорусский) の2人が無期懲役の判決を受け、そしてブロニスラヴとまだ裏切り者という事実が判明していないカンチェロフを含む残りの8人が強制労働を伴う2~20年までの流罪という判決をうけた。ブロニスラヴはサハリン島で15年の強制労働判決をうけた。
この時特別議会の判決とまた別に50人がシベリアの流罪判決を受け、その中でユゼフ・ピウスツキが3年間懲役の判決をうける。
5月20日
死刑判決をうけた5人のテロリストがシュリュッセリブルグ (Schlüsselburg) 塔で処刑される
6月8日
525人の流罪者がオデッサ港からニジニー・ノフゴロド号でサハリンを目指して出発。スエズ、インド洋、日本海経由の船旅であった。
8月3日
ピウスツキが200人の流罪者とともに、サハリン北部の西海岸にあるアレクサンドロフスキー (Александровский) 岬で下船。彼らの下船地は将来の流罪の地になるティモフスキイ群リュコフスカイェ村から60キロ離れたところである。
アレクサンドロフスキ軍宿舎
サハリン郡郷土資料館所蔵
リコフスカイェ村
サハリン郡郷土資料館所蔵
8月4日
刑務所の強制労働が始まる。ピウスツキは始めリュコフカイェ村の周りの木の伐採、次に牛舎の管理、そしてロシア聖教の教会の建設現場で大工として働く。
アレクサンドロフスキ軍宿舎の教会
サハリン郡郷土資料館所蔵
リコフスカイェ村の教会
サハリン郡郷土資料館所蔵
1888年
子供に教え始める。生徒数は多いときに8人、少ないとき3人である。
1889年
1月
刑務所の牛舎に移される。
2月から3月にかけて
学歴を持っている人材が不足していたため、ブロニスラヴが肉体労働からはずされ、ティモフスキー (Тымовский) 郡の警察庁の事務局員に任命される。その後、ミロリュボフ (Миролюбов、意味は平和主義者) というペンネームで (サハリン島での8年間) という著書を出版したイワン・パヴロヴィッチ・ユワチェフ (Иван Павлович Ювачев) と同居する。原住民のギリャク人 (гиляки) (現在ニフク (нивхи)) との接触が増える。
1891年
1月
当時名の知られていた民族学者のレフ・ヤコヴレヴィッチ・シュテンベルグ (Лев Яковлевич Штернберг) と知り合う。シュテンベルグは1889年にサハリンに島流しで送られた。
5月1日
1982年まで続いた (サハリン日記) を付け始める。
1892年
5月下旬から9月1日にかけて
ティモフスキー郡リュコフカイェ村からサハリン島南部までの道路建設過程で強制労働者が監視者の手荒な処遇を受け、100人あまりの囚人が死亡または行方不明となった。ピウスツキがミコライ・レルラシュケヴィッチ (Николай Перлашкевич) と共にその犯罪についての情報の主な提供者となり、新聞へ情報が流出した事が政府の正式な捜査のきっかけとなる。しかし、ティモフスキー郡公文書保管所の当時の書類では、彼らが検察官のクリモフの捜査に協力せず独自の捜査をしており、国家犯罪者であるとされている。政府の機関では、事件の騒ぎを最小限にとどめようという動きがみられた。
1893年
ニフク文化研究や、ニフク語辞書の作成に励み始める。
1894年
政府の推薦でピウスツキがリュコフスカイェ村の気象台で気象観察記録をはじめ、またハバロフスクの新設博物館のために生物学の研究をはじめる。
サハリン島の政府機関が博物館の創立を決定する。
1896年
5月14日
ツァーアレクサンダー三世の死後に行われた大赦により、ブロニスラヴ・ピウスツキの罪が15年懲役から10年に減刑される。
ピルスツキーの初出版にあたる (リュクフスカイェ村の気象観察報告) が出版された。
地域の教育活動に励む。政府機関から公演の許可を得、数回にわたってロシア文学の朗読公演をする。また、サハリン島の歴史を題材に、もうもうとした映像でありながらも当時のプロジェクター使用したサハリン島に関する初めてのマルティメディアによるプレゼンテーションをする。
コルサコフスキー岬 (Корсаковский) やガルキノ・ヴラスコイェ村 (Галкино-Враское) (現在ドリンスク市 (Долинск)) で気象台建設の取締役として、サハリン島の南へ派遣される。ピウスツキは組織や装備の管理を任されていた。また、派遣のもう一つの目的として以前集めた民族学コレクションにアイヌ文化の資料を付け足すことがあった。この時アイヌ人との初めて出会う。
12月6日
メルカジン総督 (Мерказин В.Д.) の命令でアレクサンドロフスキー岬で博物館が開館される。博物館の創立に貢献した人物名簿の中に不思議にも二人の国家犯罪者が入っている。これは本当に異例な事ではあるが、ピウスツキとシュテンベルグの努力のおかげで1000個以上の民族学セクションの展示品とその説明文が博物館に置かれることになったのであるから、これだけの貢献となると政府も無視することができなかったのであろう。
サハリン島博物館開設式
サハリン郡郷土資料館所蔵
サハリン島博物館
サハリン郡郷土資料館所蔵
1897年
2月16日
ピウスツキが強制労働懲役期間を終了し、生活費用が自己負担となる。リコフスキーの同居者として、移動権を持たない市民として登録される。
4月30日
就職口がないため、彼がアムール川のニコルスク市(Никольск)の近くのアニアンスキイェ温泉へ引越しようと、政府に移動許可申請をする。
5月23日
アムール地方研究協会がピウスツキをヴラディバストックの同協会博物館内図書館館長に任命するために、政府に移動許可申請をする。
9月10日
ピウスツキが移動権を持たない身分のため、申請が却下される。
1898年
5月23日
アムール地域研究協会が二度目の申請をする。
11月28日
アムール地域総督が要求の正当性を認め、許可が得られる。
1899年
3月15日
ヴラディバストックに到着
国際民俗学協会の主催で1900年にパリで行われた展覧会のために、展示品を準備する。
1900年
展覧会でピウスツキが出した展示品が高い評判を博して、初日で完売する。また銀メダルを与えられる。
サハリン島で集められた資料や民族学の文献を研究する。王立地理学会のヴラディワストック支局長を勤め、公演、統計調査学会の常勤社員、隔週出版される遠東統計誌の共同編集長、地方新聞の編集者等の活動をする。
1901年
アイヌとオロクの民族学資料を集めるために、王立科学研究協会協会員としてサハリン出張に誘われる。
5月5日
気候による体調不調をうったえ、ブラゴヴェッシェンスク (Благовещенск) への移動許可申請をする。
5月28日
ピウスツキが博物館長を辞任したという報告が、アムール地域研究協会から軍隊総督に届く。
10月18日
総督がブラゴヴェッシェンスクへの移動を許可する
10月25日
懲役期間が終了したため、ピウスツキが農民身分獲得申請をする。
1902年
5月
海岸地区の地方検事として活躍する。
5月15日
科学アカデミーの副院長が、ピウスツキを南サハリンに派遣するために許可を求める。これも民族学資料の収集を目的とした出張であった。
5月31日
総督がサハリン出張を許可する。
6月5日
サハリン島の子供教育問題を再検討しようと、追放者の家族援助協会の総記であるバグスヴェデン男爵 (Bugsgweden) と共に、ハバロフスクに行くことになり、そのための許可申請をする。
6月7日~11日
ハバロフスクに滞在。
7月8日
ピウスツキがエジソンの発明した蓄音機とワックスシリンダをもって、ウラジオストックを汽船のゼア号 (Зея) で去り、 サハリンへ向う。
10月8日
ピウスツキに農民の身分が与えられる。この時やっと市民権をある程度取り戻せたと言えよう。
年末
ピウスツキがサハリン島の東海岸にあるアイヌ人のアイ村 (Ай) の村長、キムル・バフンケ (Кимур Бафунке) の家に泊まる。村長の美しい従妹のチュフサンマ (Чухсанма) と恋に落ちる。アイヌ人のための学校創立として最初の試みをする。
1903年
ピウスツキの科学への貢献がロシア地理学会に認められ、小さな銀のメダルを与えられる。
最初のアイヌ人学校が創立。
ピウスツキとチュフサンマの間で長男のスケゾ (Сукэдзо) が生まれる
5月29日
ロシア地理アカデミーがピウスツキをシェロシェフスキ (В. Серошевский) と共にYesso島(北海道)へ4ヶ月間の研究旅行に派遣しようと、総督に計画の許可申請をする。
6月11日
国内大臣から許可が得られる。
7月
ロシア帝国地理協会の働きかけにより、ピウスツキがシェロシェフスキの研究旅行に参加する機会を与えられる。
9月24日
サハリンへ帰る。サハリン島軍事総督のラプノフと知り合い、ロシア側へ提出する資料としてサハリン島の原住民に関する報告作成を頼まれる。
1904年
2月
日露戦争が始まる。
サハリンのアイヌ人に関する統計資料を作成する。その中には村の位置、人口、出産や死亡記録、家族構成、仕事の出来ない障害者数が記録されている。
1905年
6月11日
汽船「ウラジオストック」号でニコラエフスク、マリイスク、そしてハバロフをまわり、アムール川下流域のツングス族のオルチャ人 (ольчи) の研究をする。
初秋
サハリン島南部の二度目の滞在。帰国許可を得、家族を連れて帰ろうとするが、バフンケが反対。二度合うことが出来ない息子とキエ (Kyō) と名づけられた娘をおいて、帰国の途へつく。
10月
日本(神戸)へ旅行。ピウスツキがハワイ王国に帰化したロシアからの亡命者ニコライ・ルッセル (Николай Руссель) (実名スジロフスキ (Судзиловский)) という記者と知り合う。ルッセルは日露戦争で捕虜となったロシア人の間で反皇帝組織を創立しようとしており、ピウスツキがその活動を後援する。再びサハリン南部に帰る。
11月
ウラジオストックに到達。月末に再び日本を訪れる。
1906年
1月下旬
東京に到着し、ルッセルが編集長をつとめる長崎発行の定期刊誌の (ヴォリャ) (自由) の宣伝に取り組む。ロシア文学翻訳者や記者として名の高い二葉亭四迷 (長谷川辰之助) と知り合いになる。二人が互いの国の文学の普及を目的とした日露文学協会創立。最初の翻訳は、ピウスツキがクラコフに到着後なされた。
2月6日
社会主義運動家の会議で公演。これは片山潜の帰国歓迎会で、ピウスツキが通訳者を通じてロシア語で公演をした。
2月25日
日本社会主義協会の饗宴に参加し、メンバーと一緒に写真撮影に参加する。その8年後に、ここであった石川三枝とブリュッセルで会うことになる。
3月10日
中国革命運動の活動家のSong Jao Rengと合う。その後、孫文の率いる中国革命グループ"ミンポシャ" を訪問。共同写真撮影。
二葉亭がピウスツキを下層階級問題を専門とする横浜毎日新聞記者の横山源之助に紹介し、その後横山がピウスツキから聞いた情報をもとに二冊の自伝を書く。
日本右翼組織の国竜会と交流。
日本の民族学者と交流。ピウスツキ著の二つの論文が日本語に翻訳される。
7月
ピウスツキが長崎を訪れ、ルッセルの活動に初めて直接参加をする。
7月30日
ピウスツキが、船で神戸を経て、横浜に向う。
8月5日
アメリカ籍の「ダコタ」号で日本をたち、アメリカ合衆国に向う。
9月
アメリカを旅行し、シアトル、ニューヨーク、シカゴを訪れる。途中でパスポートを紛失。
初秋前後
母国に帰る途中でロンドン、パリによる。
11月
クラコフのトポロヴァ通り16番に住む兄ユゼフ等、親戚のところからいくつかの手紙が送られたことから、彼が家族の所に泊まっていたことが分かる。
1907年
6月頃
健康改善のために、数週間Karlovy Vary - Karlsbadに滞在。
8月
クラコフで短期滞在後、ザコパニェ (Zakopane) を訪問。ブラトニャ・ポモシ (Bratnia Pomoc) (兄弟の温かみ) という名の民宿に泊まる。それからポロニン村 (Poronin) の郊外にある兄の家に引っ越す。
11月
再びザコパニェ村の違う住所に引っ越す。今度の居住地はクルポフスキ通りNo.78の民宿で、恐らくここで子供時代の親友のマリア・ザルノフスカと再会。マリアはツァーの公務員の妻であったが、全ての倫理的や法律的な決まりを無視して、二人は公然と結婚を宣言。
1908年
3月
夫妻がリボフ市のトゥレカ通り (Turecka) 3番地に滞在。 ピウスツキが持ち帰ったアイヌ資料の中から蓄音機のシリンダ8本と何枚かの写真を売る。
マリアが発病、胸癌という診断を受ける。医者に即座に手術するように言われ、家族がサンクト・ペテルブルクで執刀医を見つける。サンクト・ペテルブルクの病院に入院。
1909年
5月
10人の医師が悪性腫瘍除去手術をするが、この病気によりマリアとブロニスラヴの結婚に終止符が打たれる。マリアの家族は彼女が身体的、道徳的に落ちぶれたことに関してピウスツキの責任を問う。
マリアは家族と共にリボフに残り、パスポートを失ったためにポーランドにいられなくなったピウスツキはリボフを発たなければならなくなる。
夏
ピウスツキがリマノワ (Limanowa) に居住し、マリアと文通を続ける。
8月
フランス旅行。
9月
パリに到着。クリイェル・リヴォフスキ ("Kurier Lwowski") 誌のフランス駐在員として、彼が祖国から追放されたポーランド人のヴラディスラヴ・ミケヴィッチ (Wladyslaw Mickiewicz、同名の詩人の息子) 、マリア・スクロドフスカ・クリエ (Maria Skłodowska-Curie) 、や歴史学者のシュポタルスキ (St. Szpotalski) と交流する。ポーランド・トルコの交流協会やフランス地理学会の会員になる。
1910年
2月
クラコフに暫らく滞在し、マリアを連れてウィーン経由でパリに戻る。
4月下旬
マリアの体調が悪化し、病床から起きられなくなる。
マリアとブロニスラヴ離婚。その状況や理由は分かっていないが、お互いを「夫」「妻」と呼ばなくなり、そして、恐らくマリアから連絡を受けた夫が迎えに来て、サンクトペテルブルグへ連れて帰る。
6月上旬
日本の展覧会を見にロンドンに行き、 St. Peter Square 37番地にあるヴォイニッチ家の家に泊まる。
しばらくしてから、ピウスツキが展覧会に参加していた日本人団体と共に Sheperd Bush Green 45番にあるホテルに泊まる。前後して有名なポーランド人作家ステファン・ゼロムスキーとその家族が同じホテルに泊まる。ヴォイニッチの家族のおかげでアイヌ資料のいくつかが売れる。
1911年
1月下旬
クラコフに戻り、その際イタリアに滞在中の兄のSzlak通り25番のアパートに泊まる。
4月
サハリン時代と友達のプロスキ (E Płosski) とリマノフ村 (Limanow) で再会。
5月
クラコフに戻る。ピウスツキがスタホフスキエゴ通り (Stachowskiego) No. 12のアパートに居住。"アイヌ語と民族の研究原料"が恐らくここで完成。
6月12日
マリアの死
夏
クシュニツェ (Kuźnice) へ旅行
11月25日
ピウスツキの提案でポーランドタトラ協会 (SL PTT) の民族研究部が開設される。彼がその初期部長に選出される。
1912年
5月下旬
SL PTT の友人のコルニロヴィッチ博士 (Korniłłowicz) が住むビストレ (Bystre) の家に引越し。
11月
プラハへ旅行。ヴィノグラディ博物館 (Vinogrady) の技術展覧会を訪れる。その途中で、彼がマーティンのスロバキア博物館を訪問したと予想される。
12月
帰国途中、クラコフとザコパニェを訪問する。
1913年
年始
スイスのノイシャテル (Neuchatel) を訪れ、そこの大学の学生として登録されている。
5月上旬
パリ旅行
6月25日
PTT宛てに送られた手紙で初めてギネ・ピウスツキという署名がでてくる。
7月10日
パリからブリュッセルへ行く。
8月3日
ピウスツキが不在中にザコパニェのタトラ博物館の落成式が挙げられる
10月
ピウスツキがザコパニェに戻り、再びビストレのコルニロヴィッチ家族の家で居候
1914年
3月
クラコフに引越し。ポーランド能力アカデミーで民族学セクションが開設され、ピウスツキがその常時秘書兼取り締まりとして任命される。
ザコパニェへ数回訪問する。そのおかげでポドハランスキ年刊誌の初版が完成される。残念ながら、彼が生きている間は出版されることが無く、やっと1921年彼の悲劇的な死後に出版される運命となる。
6月3日
リボフに住むベネディクト・ディボフスキ (Benedykt Dybowski) 教授の家を訪問。
8月5日
オーストリアがロシアに宣戦し、第一世界大戦が公式開始する。
12月上旬
ピウスツキがウィーンを目指して出発し、シンドラガッセ (Schindlergasse) 44番に滞在。
1915年
3月31日
オーストリアのパスポートを取得。
4月
ローザンヌに滞在。ここで彼がウィーン、ローザンヌ、およびワルシャワでポーランド百科辞典を作る提案をし、その準備や著者の組織を作ろうと努力を注ぐ。
9月
ガブリエル・ナルトヴィッチ教授をサポートするために、チューリヒを訪問。
ラッペルスヴィル市 (Rapperswill) 内のポーランド博物館を訪問。
12月12日
フリブルグ市 (Fribourg) において、 "Comité général de secours pour les victimes de la guerre en Lithuanie" が成形され、ピウスツキがその委員長に選ばれる。
1916年
スイスの都市 (ローザンヌ、Vevey、チューリヒ、ジュネーブ、フリブルグやパッペルスヴィル等多数) を旅行し、ポーランド百科事典 ("Encyclopédie Polonaise") の編集に携わる.
1917年
2月
ローザンヌとジュネーブで "シベリアのポーランド人" という公演をする
8月15日
ローザンヌでロマン・ドモフスキ (Roman Dmowski) の管理下でポーランド国民委員 (KNP) が成形され、ピウスツキが実兄の大敵を後援するグループと共に活動する。
11月中旬
ピウスツキがパリに到着し、クレバ (Kléber) 通り 11番にあるKNPの官邸に泊まる。
1918年
初春
Le Puyを訪問。
5月17日
恐らくピウスツキの死亡した日にあたる。死亡原因としてセーヌ川での溺死が考えられる。
5月21日
身元不明な死体がミラボ橋 (Mirabeau) で見つかったという記事が新聞に載る。
5月25日
警察の依頼でソケイ (Socquet) により検死が行われ、その報告がパリ警察の記録保管所で5月号598番に保存されている。
Translated by
Yura Beilis
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